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哀公問曰、何爲則民服、孔子對曰、擧直錯諸枉、則民服、擧枉錯諸直、則民不服、 (哀公問うて曰わく、何を為さば則ち民服せん。孔子対(こた)えて曰わく、直きを挙げて諸(こ)れを枉(まが)れるに錯(お)けば則ち民服す。枉れるを挙げて諸れを直きに錯けば則ち民服ぜず。 ) ここで初めて、魯の主君の一人、哀公が登場します。 ところで、この会話は成り立つのでしょうか。 繰り返しますが、孔子は季孫子の内臣です。 魯公からみれば「陪臣」にあたります。 陪臣はご主人が仕える主君とは、直接会話することが許されません。 ですから、孔子と哀公の直接対話は有り得ないのです。 実現していたら、それこそ春秋に掲載されます。 「卿の内臣の分際で、公に直答を許された最初の人物」として。 次に、哀公そのものに着目します。 哀公は在位紀元前496年~468年。 ですから、「哀公」という諡号が贈られたのは、前467年以降となります。 ですから、この一節が作られたのも、同467年より後年と言うことになります。 また、哀公の即位時、孔子は「諸国漫遊」に出かけていました。 帰国したのは前484年、即位後10年以上を経てからです。 10年以上も諸国漫遊と言う名の放浪をしていた老人に、政治を諮問しなければならないほど、魯は人材に困っていたことになります。 そして、孔子の言った言葉が、「擧直錯諸枉、則民服、擧枉錯諸直、則民不服」。 煎じて言えば、「今の家臣を一層、粛清せよ」と言うことです。 では、哀公の家臣とは誰か。 間違いなく、その筆頭は宰予(宰我、子我)です。 貴人宅で、使用人について云々するでしょうか。 これだから、曾子及び孟子とその一派は困るのです。 師である筈の孔子が言う筈がないことを言わせている。 僭越と言えばこれ以上の僭上はありません。 よって、この一章は、後世の加筆と断定します。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。
by 2-shikou
| 2008-02-15 21:34
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