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「孝経」と言う書物がありますが、当たり前の考え方をすれば、この書は嘘っぱち、有体に言えば「偽書」であることが理解出来ます。 この書は、孔子と曾子の質疑応答形式を体裁として採っていますが、両者の年齢差と「天下漫遊」期間、それに曾子の成長(普通20歳程度で「師範代」にはなれないでしょう)を考えると、孔子が魯に「帰還」した最晩年に出来上がったとしか考えられませんが、最晩年の孔子にあれだけの質疑応答、受け答え、思考をさせたら、どうなるか言うまでもありますまい。 しかもそれだけの時間、孔子を「独占」できるか、考えるだけで馬鹿らしくなります。 つまり、「孝経」は偽書なのだから、それを経典(聖典)として読む方がおかしいということになります。 そんなことをしなくとも、曾子が「論語」に加筆した部分だけを集めれば、立派な原本「孝経」が出来ると言うものです。 ですから、この偽書の著者は曾子ではなく、その流れを汲む者でもっと馬鹿、孟子かその系統の儒家だと推測しています。 (続く) 次回か、その次くらいから本格的に、「論語」に再度喰らい付きます。 ■
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by 2-shikou
| 2009-02-20 00:24
以前からと言いますか、連載前からずっと温めていた疑問なんですが、 「本当は、孔子は魯の国から一歩も出たことがないのではないか、諸国漫遊は全て架空、そのこと自体が虚構なのではないか」 「仮に国外に出たとすれば、それは諸国漫遊でも遊説でもなく、クーデターに伴い主人の筋の人物が亡命を余儀なくされた結果ではないか」 「儒家は何で揃いも揃って長寿なのか、孔子の生没を真実と考えても、孟子、荀子に至っては怪物と言うか物の怪と言うか、神格化のためと思われるがもの凄い長生きで、講釈を垂れなくともそれだけで歴史に名を残している筈である。」 「天下漫遊」に出た時点の孔子の年齢は、同時代はおろか割と近世に至るまで、それまでに寿命が来てもおかしくない代物で、そんなのがごく少数で護衛も付けずに放浪したら、それこそ「徘徊老人」になると思います。 「それだけの稀有の体を授かっていること、それが聖人の証なのだ」と言い出せば、完全な循環論法に陥ります。 亡命は有り得ますが、結論を出すには、当時の政治情勢を春秋から探っていく他ありません。 それから、実は孔子の生年は紀元前552年乃至551年で正しいとしても、没年は怪しいと言いますか、そうしないと「辻褄の合わない」人物が出てくるのではないのでしょうか。 全く根拠はないですが、それは顔淵ではないかと睨んでいます。 あるいは孟孫子の系統か、私見では孟子は孟孫子の系統です。 (続く) ■
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by 2-shikou
| 2009-02-14 01:28
来週より(2月16日~)平常更新に戻ります。済みません。 本誌執筆者 ■
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by 2-shikou
| 2009-02-11 16:57
御既承の通り、仕事と家庭、それに肉親の原状回復支援の3正面作戦を展開している現状を鑑み、また一部読者から休載中のブログ最下位の声も頂きました点も踏まえ、各ブログの発行曜日を下記の如くと致し度、読者各位に於かれましては格段のご高配を賜れば幸甚でございます。 なお、翌日未明にずれ込む場合もありますし、必要とあれば随時更新致しますので、併せてご了解の程、お願い申し上げます。 中身の薄いものを毎日更新するよりも、内容の濃密さを追求する方を選択した結果とご理解頂ければ幸いです。 「おん爺U」の抱腹絶倒 株式レーティング」:毎週月曜日、水曜日、金曜日の週三回 「現代中国に関する考察」:毎週火曜日、木曜日、土曜日の週三回 「現代の超克」:毎月第一及び第三日曜日 真説「春秋」「論語」及び「孔子」:毎月第二及び第四日曜日 上記適用開始時期は、2月です。 以上、宜しくご理解の程、お願いします。 各誌執筆者 ■
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by 2-shikou
| 2009-01-26 01:34
読者の多寡より質を求める考えの持ち主としては、大変心強き味方を獲た思いです。 体力の回復を待って連載再開の予定です。暫時ご猶予の程を。 執筆者 ■
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by 2-shikou
| 2009-01-18 01:46
ただ今、肉親の看護と原状回復支援で時間と体力が尽き果てている状態です。 あと少しお時間を頂ければ幸いです。 執筆者 ■
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by 2-shikou
| 2009-01-18 01:43
「儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、從者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天將以夫子爲木鐸、」 最後の木鐸は、「社会の木鐸」と言う用語の原典です。 この一節は人口に膾炙していますが、残念ながら後世の創作です。 馬鹿らしいほどの初歩的ミスをしています。 「喪」で贋作だと自ら白状しました。 「喪」は宮崎先生によると、「家や位を失うこと」。 封人は今で言う税関職人。 見知らぬ人物が集団で国境に来たので、職務質問した訳です。 その質問で、孔子は自ら「家や位を失うこと」身の上であると述べたことになります。 その上で少し話をして、税関職員に相手が「社会の木鐸」になりうる人物か分かるものですか。 ところで、この一節は何故挿入されたのでしょうか。 答えは「孔子=水戸黄門」説で解き明かすことが出来ます。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-07-01 07:57
管仲を謗ることは、誰を非難することに繋がるのでしょうか。 管仲の立場は「馬鹿殿(斉の桓公)の名補佐役」です。 つまり、主君を輔弼しながら、待遇は主君と紙一重の人物です。 となると、該当するのは季孫子系の人物しかありません。 季孫子の内臣である孔子をして、季孫子を謗らせる、おそらく曾子の仕業でしょうが、やることがあざと過ぎます。 「子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也、從之純如也、徼*如也、繹如也、以成」 見るからに礼楽派の挿入文、勿論原本にある訳ないです。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-06-26 21:06
子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲儉乎、曰、管氏有三歸、官事不攝、焉得儉乎、曰然則管仲知禮乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、邦君爲兩君之好、有反沾*、管氏亦有反沾*、管氏而知禮、孰不知禮、 管仲の登場です。 当時、孔子を知らぬ者は山ほどいても、管仲の名を知らぬ者なしと言っても差し支えない人物です。 馬鹿殿の斉の桓公を補佐して、春秋の盟主にまで押し上げたのですから、傑材と言ってもよいでしょう。 論語で他人を貶す時は、まず構成の加筆とみて構いません。 管仲が仮に、この一節のようなことをしていたら、不敬罪で一瞬にして処刑ですよ。 ただ、この場合、管仲を非難したかったのか、彼を通じて斉を批判したかったのか、同じ地位にある魯の要人を当てこすっているのかは不明です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-06-19 00:51
「哀公問社於宰我、宰我對曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰、使民戰栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不諌、既徃不咎、」 この哀公と宰我の会話は、実際にあったものとみなします。 但し、 宰我は魯公(この場合は哀公)の内臣、孔子は季孫子の内臣ですから、関係はありません。 もう1つの考えも成り立ちます。 生贄が国外の貴人であった可能性もあります。 A国に忠義を示すため、B国の貴人をA国の流儀で生贄に捧げる、これも立派な政治的行為で意思表示です。 その場合、魯はA国の属国になり、B国を敵に回すことになります。 いずれにせよ、この一文が原本にあったと結論付けるならば、その箇所は為政編か泰伯編です。 泰伯は呉の祖ですから。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-06-16 22:42
他国の儀式を真似ると言うことは、その国への服従を表す格好の意思表示です。 つまり、哀公は生贄の儀式を挙行することで、魯が他国(おそらく呉)の属国になったことを、内外に示したと考えられます。 哀公としてもおそらく不承不承だったのでしょうが、背に腹は代えられなかったのでしょう。 とすると、生贄は反呉勢力の頭目と言うことになります。 勿論、公族の一員と思われます。 曾子か孟子の縁者だったと推測されます。 孟子は孟孫子の末裔だから「孟子」、曾子は臧孫子の縁者だと推測されます。 ですから、宰我を激しく憎むのです、親兄弟か、それに近い人物の仇ですから。 親呉路線の推進者、それが宰我です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-06-05 17:48
会話の中で宰我は哀公に対し、ご主人の行為(=儀式で人身御供を捧げる)は国人を「戦慄させた」と讃えています。 とすると、大国からの半強制にせよ、人間を生贄に捧げる儀式は、秘密裏に開催されたのではなく、白昼堂々と行われたことになります(でないと「戦慄」できない) では、何の目的で誰を生贄にしたのか、これが問題になります。 その生贄ですが、儀式の際のお飾りやお供物、貢物は良質であるほど良いに決まっています。 いい加減な物を供えると、祖先神がお怒りになる。 ですから、生贄は血筋の良い貴人、できれば若者が良いです。 事実、春秋で「隠太子」と呼ばれる人物は、全て楚によって生贄に捧げられた人物です。 それでは哀公の場合、誰が生贄となってのでしょうか。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-27 14:19
ここまで、宰我は魯公の内臣(おそらく内臣団長、従って季孫子の内臣である孔子の弟子になる訳がない)であり、ご主人と秘書長の関係ですので、質疑応答や会話が成立することは既述の通りです。 ですが、今問題にしている一節のような会話が交わされたかどうかは、別の話であり、別途検討が必要と言いたいのです。 前回、哀公の治世は南方諸国の権勢が魯国にも達していた時期でした。 その南方諸国ですが、楚を筆頭に生贄を捧げるのが大好きです、勿論人間の。 宮崎教授は、哀公は人身御供を捧げたのではないかと推論されていますが、卓見だと思います。 ただ、それは魯を傘下に収めつつあった南方諸国(時期的には呉)に恭順の意を示すために行ったのではないか、そう考えられます。 ところで、お供物は通常、品質の高いものにしますか、あまり質の良くない物にしますか。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-26 11:07
史伝によると、哀公の在位期間は紀元前495年から同468年の30年足らずです。 では、この時期の政治情勢はどうなっていたのでしょうか。 実は、紀元前6世紀を前半と後半に分けますと、前600年から550年頃までは、北進する楚とそれを拒まんとする晋の力比べの時代で、同550年から25年ないし30年は、晋が力尽きて楚が唯一の超大国として中原を睥睨した時期でした。 ここで障害がなければ、楚による全土平定も有り得たかも知れませんが、おそらく反楚諸国の後援を得た呉が俄かに国力を充実させ、楚の派遣を崩しにかかります。 そのため、紀元前500年を跨ぐ20年ほどは、楚は逼塞してしまい、代わって呉が傍若無人に振舞いますが、今後は越が呉に牙を剥きます。 誠に目まぐるしい展開ですが、共通しているのは楚、呉、越のいずれも長江(揚子江)沿岸の、「中原」とは文化を異にする南国である点です。 そして、当時の魯もこれら南国の意向を無視できませんでした。 つまり哀公の時代は、心ならずも南方の風習を取り入れなければなりませんでした。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-25 14:33
魯公の内臣団長を務める宰我ですが、罵詈雑言を浴びせられた挙句、隣国斉で横死しています。 そもそも魯公の内臣が斉に再就職する筈がないのですが、現地の政争に口を挟んで犬死しているように見せかけています。 実は、その際に死んだのは斉の国政に関与していた宦官で、字が「子我」なのです。 本来、後世の歴史家は宰我と呼んで「子我」と言う表記を避けたのは、そもそも孔子の弟子でない(従って孔子から新たに字を受けていない)宰我の字が「子我」では無かったためでないでしょうか。 それにしても、宰我に対する憎悪は常軌を逸しています。 その理由は、ひょっとしてこの一説にあるのではないでしょうか。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-20 12:39
前回、宰我を魯公の内臣団長と断定しましたが、その根拠となるのが本節です。 この時代、貴人は通常、内臣即ち家内奴隷と直接会話を交わすことは有り得ません。 但し、内臣団長は例外です。 秘書であり、内臣を束ねる人物だからです。 ですから、宰我を内臣団長と仮定すれば、魯公と会話をしていても不思議ではありません。 ただ、直答を許されていることと、論語の文が真実を伝えているかは別の話です。 この一文は他者による贋作です。 理由は簡単、内臣団長がご主人に対して対等な態度を取る筈がないからです。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-19 11:48
宰予 字は子我ですが、「宰我」が通称になっています。 そして、目下の者が記す場合、字の「子我」を使わなければならないことは、この時代の常識です。 ですから、「宰我」と言ういささか礼を失する表記を使っているのには理由があると考えられます。 まず、この一節を挿入した人物は、政治的に「宰我」を対立する立場にあったと考えられます。 次に、「宰我」は身分が低かったためで、具体的には内臣(家内奴隷)でした。 それから、孔子の弟子ではなかったことも理由に挙げられます。 孔子の弟子であれば、仲由(子路)に代表されるように、「子+以前の字の一部」と言う新たな字を、「免許皆伝」の験に貰います。 但し、孔子の弟子は、基本的に季孫子の内臣です。 とすると、弟子ではない宰我は、別の有力者の内臣ということになります。 では、誰の内臣か。 魯公の内臣です。それも内臣団長です。 ですから、魯公と直接会話が許されるのです。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-18 14:15
「子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷、」 この一節が仮に孔子の発言だとしても、論語の原本に掲載されていないと思われます。 この一文は、詩経の關雎について、孔子が解釈を加えたものですが、それなら詩経の「伝」として残せば良いものです。 少なくとも、論語に掲載する筋合いのものではない。 ご存知の通り、原本の論語は、極めて論理性が高く、全体的にも整合が取れていて、内容に齟齬がありません。 そこに、学校の先生の講釈を書き写したような箇所があっても、不自然なだけです。 従って、孔子の肉声かどうかは別として、論語には載せるべきでない内容と判断します。 次が重要。あの宰我が登場します。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-16 14:29
「定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠、」 煩瑣を厭わず申し上げますが、孔子は季孫子の内臣ですから、定公からみれば、孔子は陪臣です。 君主が陪臣と直接会話することは、この時代に限らず有り得ません。 ましてや、他人の内臣と話をするだけで、君主の権威は失墜します。 それに、この一文の不可解なのは、定公の質問内容です。 「君使臣、臣事君、如之何」 は 「君主はその内臣を使役し、内臣はご主人に仕える。この考え方でどうかね」 と言う意味ですが、これでは馬鹿殿丸出しです。 むしろ、後の孔子の発言をでっち上げるための下敷きと考える方が妥当です。 要は、孔子に魯公をたしなめさせることで、孔子が君主の師であると言いたいのです。 勿論、後世の加筆、原本からは削除すべき一節です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-15 23:34
「子曰、事君盡禮、人以爲諂也、」 これは孔子の本音だと思います。勿論、原本に載っていました。 この一節は、少し前の 「子入大廟、毎事問、或曰、孰謂鄒人之知禮乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是禮也、」 に続けて並べると、大変繋がりが良いです。 「分からない箇所はとことん理解できるまで尋ねる、それがしきたり(礼)だとしたら、君命に従ってしきたりを全うすれば、今度はおべっかを使っていると言う陰口が聞こえてくる。」 こんな意味ではないでしょうか。 おべっか使いやがってと言う謗りは古今東西不変です。 君命を全うする孔子に対して、心無い言葉を投げかける輩が、内臣団の一部に存在していたとしても不思議ではありません。 さて、それが誰なのか。 意外と閔損(閔子騫)の父親辺りかも知れません。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 ■
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by 2-shikou
| 2008-05-08 17:43
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