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春秋時代において、奴隷の子として生まれた場合、どうなるか。 この問いに対する答えは、世界史の教科書に載っている。 あるいは、華僑に質問すれば教えてくれる。 まずは世界史から。具体的にはオスマントルコが教えてくれる。 オスマントルコ帝国では、支配下のキリスト教徒から、定期的に幼児を略奪した。 オスマントルコの下では、キリスト教徒は二級市民にも満たない奴隷(=物言う牛馬)であるから、その子供を略奪しようが何しようが勝手である。 この点、古代中国と同じ。 では、奪った子供はどうするか。 暫く様子をみて、賢い子は文官として育てる。秘書、或いは内閣官房と思えば良い。 頭はまあまあだが、体力に自信がありそうな子は、兵士にする。あの悪名高きイェニチェリ(親衛隊)である。 そのどちらにも該当しない場合はどうなるか。良くてコック(料理番=宰)、悪ければ宦官(私的召使い)。 華僑に質問しても同様。 「息子の将来の決め方」と訊けば、 「賢ければ大学に生かせ、体力がありそうならばスポーツをやらせる。どちらにも該当しなければ料理人にする」 これ以外の回答はない。 ただ、古代においては、奴隷に教育をつけてやるほどの余裕はなかった。 その奴隷本人が賢いだけでは不十分。必要条件に過ぎない。 ご主人の側からみて、費用をかけても奴隷(=臣)に教育を与える必要が出てこなければならない。 孔子の仕えていた季孫子は、そういう立場にあった。必要性を感じるに至った。だから、少し年齢的には遅いが、聡い孔子に教育をつける決心をしたのである。 そこに、「吾十有五而志乎學」の真意がある。 ここは、何としても、「学問をするお許しが出たのは、15歳になってからなのだ」と訳すべきである。 遺憾なことに、何故、孔子の勉学開始時期が遅かったか、その問題意識すらない専門家が多い。己が15歳から勉強して、はたして今の学識が得られたかどうか、胸に手を当ててみて考えよと言いたくなる。 次に「三十而立」とはいかなる意味か。 これほど簡単なことはない。教師の立つところはどこか。読者ももうお分かりであろう。 (了)
by 2-shikou
| 2007-12-25 21:51
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