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史伝によると、哀公の在位期間は紀元前495年から同468年の30年足らずです。 では、この時期の政治情勢はどうなっていたのでしょうか。 実は、紀元前6世紀を前半と後半に分けますと、前600年から550年頃までは、北進する楚とそれを拒まんとする晋の力比べの時代で、同550年から25年ないし30年は、晋が力尽きて楚が唯一の超大国として中原を睥睨した時期でした。 ここで障害がなければ、楚による全土平定も有り得たかも知れませんが、おそらく反楚諸国の後援を得た呉が俄かに国力を充実させ、楚の派遣を崩しにかかります。 そのため、紀元前500年を跨ぐ20年ほどは、楚は逼塞してしまい、代わって呉が傍若無人に振舞いますが、今後は越が呉に牙を剥きます。 誠に目まぐるしい展開ですが、共通しているのは楚、呉、越のいずれも長江(揚子江)沿岸の、「中原」とは文化を異にする南国である点です。 そして、当時の魯もこれら南国の意向を無視できませんでした。 つまり哀公の時代は、心ならずも南方の風習を取り入れなければなりませんでした。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。
by 2-shikou
| 2008-05-25 14:33
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